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政府による“自由と統制”が社会の発展に与える影響について

 経済が発展する速度は、政府が経済市場に対してどの程度の自由を与え、そしてどの程度の統制を行うかによって定まることになる。以下では、これまでの歴史の中で政府による自由と統制が経済市場をどれほど発展・停滞させてきたのかという点について5つの事例を挙げてみていく。

アメリカの自由経済とソ連の計画経済

 1945年に第二次世界大戦が終了した後、アメリカとソ連は政治体制や経済体制の違いから対立することになった。いわゆる“冷戦”である。
 アメリカは自由経済体制を掲げ、経済市場における個人や企業の経済活動を原則として自由なものとした。これに対してソ連は計画経済体制を掲げ、個人や企業の自由な経済活動を認めることなく、中央政府の計画通りの経済活動を義務付けた。アメリカの自由経済体制においては労働者には就業の自由や転職の自由があったのに対して、ソ連の計画経済体制においては労働者には職業の選択の自由は与えられず、転職することは禁じられていた。
 アメリカの経済市場では製品の開発・製造は消費者の需要や市場の動向を反映して行われる、いわゆる『下から上』の意思決定であったのに対し、ソ連の経済市場では中央政府があらかじめ製品の製造の質や数量を決定する、いわゆる『上から下』の意思決定であった。
 アメリカでは消費者が求めるものを提供できるようにと各企業・労働者が常に消費者の利益を考えて商品やサービスの開発を行っていた。消費者の利益はすなわち自社・自身の利益につながるため、労働者の労働意欲は高く、他社よりも高品質で低価格の製品作りが日夜を問わず行われることになった。こうして様々な機能やデザインを持つ画期的な商品・サービスが生み出されていくことになった。
 これに対して自由な労働が認められないソ連においては、労働者の労働に対する意識は低いものとなっていた。低い労働意識によって労働の作業効率は低下し、結果的に品質の低い製品が常態的に生み出されていた。こうして当時のソ連の市場で供給されていた製品は、全製品の92%が国際競争力を有しない、すなわち国際水準以下の品質になったといわれている。

 このように、経済活動を自由に行うことができるか否かにより、生み出される商品やサービスの質は大きく異なる。自由な活動は個人や企業が利益を得るための効率的な活動を可能とすることから、経済市場における“自由”は、経済市場を発展させる要素となりうる。なお、ソ連の計画経済下においても、一定の自由が認められる分野もあった。それは、農業分野である。当時のソ連は計画経済の一環として集団農場という制度を導入し、中央政府が決定した計画通りに農作物の栽培を行うことを義務付けられた。この集団農場制の下では、農民が自由に農作物を栽培して販売することが禁止されていたため、農民に十分な働き甲斐が生じなかった。もっとも、農民には1~2エーカー(64~128平方メートル)程度の私有地に限り、自由に利用することが許されていた。すなわち、この限られた範囲においては自由に農作物を栽培し、そして自由に販売することが許されていた。それゆえ、農民は私有地での農作に労力を注ぐこととなった。こうして、私有地で生産した農作物を市場で販売することに希望と目標を見出した。その結果、私有地農業で用いられる耕作地がソ連全体の耕作地の3%であったのに対して、ソ連の市場全体で売買されていたミルクの20%、肉の30%、果物や野菜の90%以上が私有地で生産されたものとなっていた。これは、自由に栽培することが可能で栽培した分だけ自身の利益につながることが動機となったために農民が活発的に経済活動を行うようになった結果である。
 こうした経済市場の疲弊や停滞が要因の一つとなってソ連は1991年に崩壊した。その後はロシアとして自由経済体制を導入し、経済発展を遂げている。

 この二つの経済体制の事例では、経済市場においては“自由”が経済市場をより発展させる要因となることを示したといえる。もっとも、経済市場における“自由な状態”が社会を発展させる要因であるにせよ、“自由すぎる状態”は必ずしもより効率的な社会の発展を実現する要因になるものではないという点に注意が必要である。それゆえどの程度の『自由』が利益を最大化させるのかという点について明確にすることが重要となる。

 アメリカの自由経済とソ連の計画経済を比較すると、“自由”は社会を発展させる要因の一つであることがわかる。そこで以下では、同じ“自由”を掲げた社会であっても、それによる社会の発展の度合いが異なっている例についてみる。

アメリカの『自由主義』と日本の『自由主義』

 19 世紀から20 世紀にかけて、政府は社会に、とりわけ経済市場に対してどうあるべきかが問われてきた。自由経済を掲げたアメリカと計画経済を掲げたソ連との争いは、アメリカ経済の発展とソ連と停滞という形で1つの区切りをつけることとなった。ソ連経済の停滞は、計画経済が現実的には社会の発展をもたらす制度ではないことを示し、そしてアメリカ経済の発展は、自由経済こそが社会の発展に効果的であるということを示した。もっとも、自由経済の在り方は“一つのみ”ではなく、自由の度合いによって様々な経済・市場が存在することになる。この点、同じ自由経済・自由主義の制度を採用するアメリカと日本とを比較すると、経済や市場における政府の在り方(つまりは自由や統制の度合い)は大きく異なっていることいえる。

 アメリカは、『自己責任』と『競争原理』を経済市場の根幹とし、政府が可能な限り市場に介入しない、個人や企業の自由な経済活動を基本としている。この経済体制の根底には、市場で個人や企業を自由に競争させることこそが、労働者が持つ限られた時間や労力を最も効率的に活用させ、経済や社会を活性化させるという考えがある。アメリカでは自由経済・自由主義の理念の下で“機会の平等”、すなわち誰でも挑戦できる環境を与えることで、富める者も貧しい者も、それは自己責任のもとで自由に活動した結果であるとし、政府はその結果に対して関与しないとする立場を取っている。

 これに対して日本では、自由経済・自由主義の立場を採りながらも、富める者と貧しい者との格差の是正を目指すべく、富める者から税金を多く徴収し、貧しいものには生活保護などの形で富を再配分するという“福祉国家”を実現してきた。

 この点において、アメリカと日本とでは共に“自由主義”の立場を採りながらも、その度合いが異なっていることがわかる。この二国における政府の在り方の違いが明確に表れている分野の一つに、医療保険制度がある。日本では原則として、全ての国民が公的健康保険制度に加入する義務がある。これに対してアメリカでは、全国民を対象とした公的健康保険制度はなく、65歳以上の高齢者(全国民の14%)および低所得者(全国民の18%)に対してのみ、公的健康保険制度を導入している。残りの国民は民間の保険会社に加入(全国民の53%)しているか、もしくは無保険者(全国民の15%)である。この結果、アメリカでは治療のために負債を負う者や、十分な保険給付が行われずに死亡する者もいる。
 これは、政府が個人の活動に干渉しない、すなわち個人の所得から『公的保険料』を徴収しないと同時に、怪我や病気の際には自身で対処するよう求めている結果である。これに対して日本では、原則として全ての国民を対象に『公的保険料』を徴収するが、怪我や病気の際には全国民に対して公的に負担することを約束している。

 このように、『自己責任』を掲げるアメリカでは、全国民を対象とした公的健康保険制度は存在していない。そして、そのような社会においては、利益を求めて行動する『市場原理』が働くことにより、多くの民間保険会社が保険市場に参入してくることになる。
 アメリカの医療費は、患者と医療機関との間に民間保険会社が介入するため、保険会社を利用する場合、保険会社が得る利益の分だけ患者の経済的負担(保険会社に支払う保険料)が増加することになる。また、保険会社を利用しない場合は、医療費の全額を自己負担する必要があるため経済的負担(医療機関に支払う医療費)、が増加することになる。つまり、アメリカでは公的な保険制度がないため、医療や治療に関する費用は日本よりも高価なものとなる。
 OECD(経済協力開発機構)のデータによれば、GDP(国内総生産)に占める相総医療費の比率は、主要先進国七カ国の中で日本が最も小さく(8.1%)、アメリカが最も大きく(17.6%)なっている。すなわち、収入に対する医療費の割合が日本では最も小さく、アメリカでは最も大きくなっている。金額では、日本での治療費が一人当たり2729ドルであるのに対し、アメリカでは7538ドルとなっている。その一方で、WHO(世界保健機関)が2000 年に公表した医療総合評価では、日本は1 位、アメリカは15 位となっている。つまり、日本ではアメリカと比べて安価でかつ高度な医療を受けることが可能となっている。医療を安価で受けることが可能であれば、労働者は自身の収入を他の利益(経済的利益・身体的利益・精神的利益)の実現のために用いることが可能となる。

 このように、アメリカでは社会や経済市場において過度な“自由(=不干渉)”を認めた結果、医療費や保険料の高騰によって人々の利益は相対的に小さなものとなっている。

 ソ連が自由な経済活動を認めない計画経済を導入した際に、アメリカは自由な経済活動を認めることで経済を発展させたが、保険制度の分野では自由を認めた(強制的に保険料を徴収しなかった)ことにより、保険料の徴収を強制した(支払わない自由を与えなかった)日本と比較すると、経済社会全体に非効率をもたらすこととなった。
 ソ連の計画経済とアメリカの自由経済との比較では、自由な経済活動を認めたアメリカで大きな経済発展が見られた。これに対して、保険制度についてみれば、個人の経済的利益を『保険料』として強制的に徴収している日本の方が、『保険料』を支払う義務を課すことなく自由な経済活動を可能としているアメリカよりも、社会全体において大きな利益を実現している。
 このことからも、社会の発展を目的とした場合における“自由”と“統制”は、そのいずれかのみが求められるものではなく、それぞれが適度に設定されたものである必要があることがわかる。

運輸省の“統制”と、通産省の“自由”

 アメリカと日本の保険制度に関する事例では、政府が市場に介入し、統制を行うことで効率的な利益の実現がなされた点を示している。
日本はアメリカと比較し、政府による規制が強い社会である。銀行法による規制や放送法による規制、または労働法や建築法、食品衛生法や銃刀法に至るまで、アメリカと比較して社会には多くの規制が課されている。
 この点、特に戦後の日本ではこのような様々な規制や統制が経済発展を実現させた要因となっているが、日本近代経済史を振り返ると、規制や統制を免れたために大きな発展を見せた産業分野がある。それは、自動車産業である。

 日本の自動車産業がまだ発展していなかった1950年代、自動車産業界における政府の役割が問われた。当時の日本の自動車産業が発展途上であったことから、参議院の運輸委員会では輸入を促進する派閥から『欧米諸国の競争力は数段優れ、日本がいかなる努力を払っても競争力格差は年とともにますます開いてゆき、日本はこれら諸国に追いつくことは不可能である』との意見が出されていた。また、当時の日本銀行総裁は『日本で自動車産業を育成しようと努力することは意味をなさない』として、国内において自動車産業の発展に取り組むことに否定的な見解を示していた。また運輸省(現:国土交通省)は、日本国内の自動車製造業を活性化させることよりも、国内の物流を円滑にするべく外国車の輸入を促進させ、市場を活性化させるべきだと主張した。当時の自動車産業分野には、このような『(国内の)自動車工業不要論』が台頭していた。

 このような『自動車工業不要論』と異なる立場に立ったのが、当時の通産省(現:経済産業省)であった。通産省は『自動車工業の発展は、機械工業、ひいては産業全般の高度化に通じており、今後、極力、生産性の向上に努力を傾注し、国際競争力を培養していく』との考えの下、国際通商の視点をも加えた貿易立国の産業行政を展開することを自らの使命とした。こうして、運輸省と通産省は自動車産業に対する政策に関して対立することになった。
 1955年、通産省は『国民車育成要綱案』を作成し、その案の中で『乗用車定員は4人または2人、最高時速は100km以上、時速60kmで燃料1 リットル当たりで30kmの走行が可能なこと』などの規定を掲げた。この案は後に廃案となるも、これがきっかけとなり当時の自動車メーカーは競って自動車を開発し、市場に送り出すことになった。

 こうして現在、日本国内の自動車産業は50兆円規模となり、ガソリン車では世界シェアの25%、ハイブリット車では世界シェアの90%を占めている。また、2014年にアメリカの消費者団体が発表した自動車の信頼度ランキングでは、6位のゼネラルモーターズ(アメリカ)や5位のアウディ(ドイツ)を抑え、4位にホンダ、3位にマツダ、2位にトヨタ、1位にレクサス(トヨタブランド)が選ばれた。

 通産省が自動車産業における自動車メーカーの自由を認めたことは、結果的に日本の自動車産業を発展させることとなった。かつてのアメリカが自由経済によって経済市場を発展させたのと同様に、日本も企業に自由な経済活動を認めることによって自動車産業を著しく発展させた。
 なお、日本国内の自動車産業を発展させようとした当時の通産省の案は、必ずしも全ての自動車メーカーに自由な経済活動(生産活動)を認めるものではなく、一定の“統制”が案に盛り込まれていた。

通産省の統制と本田技研工業

 通産省は日本の自動車産業を発展させる上で、自動車メーカーが過当競争によって共倒れとなることを防ぐべく、通産省が指定した自動車メーカーのみが自動車を開発・生産できるとする政策の構想を掲げた。いわゆる『特定産業振興臨時措置法案』である。この政策を主導した当時の通産省の企業局長(後の事務次官)は、官民協調路線による企業の集中によって日本企業の国際競争力を強化するべきだとし、その具体策としてこれらの政策を打ち出した。この案では、量産車をトヨタ、日産、東洋工業(現:マツダ)が担当し、高級車・スポーツカー・ディーゼル車などの特殊車輌をプリンス(後に日産自動車と合併)、いすず、日野が担当、そして軽自動車を富士重工、東洋工業が担当するとされていた。

 この構想に反対したのが、当時はまだ自動車産業に参入していなかった本田技研工業(ホンダ)である。当時のホンダは二輪バイクメーカーであり、自動車の開発・生産の実績はなかった。そんな中、通産省が掲げるこの案が可決されればホンダの四輪自動車の開発・生産は許可されない可能性があった。そこでホンダは、通産省が自動車産業に関する基本方針を発表した翌年の1962年に自動車への参入計画があることを公表し、社内に軽トラックと軽スポーツカーの開発指示を出した。その5ヶ月後に試作車を公表し、1963年に軽トラックの『T360』と小型スポーツカーの『S500』を発売した。(ホンダが自動車を発売した翌年、『特定産業振興臨時措置法案』は廃案となった)
 こうしたホンダの自動車産業への進出により、ホンダは世界を視野に入れた自動車メーカーへと発展していくことになる。

 ホンダが自動車を発売した翌年の1964年には、F1に初参戦参戦した。翌年の1965年、F1メキシコグランプリではオープニングラップでトップに立った後、65周(335km)のコースを一度もトップを譲らずに優勝した。これにより、国産のレーシングカーで初めて世界一に輝いた。また、1967年にはF1イタリアグランプリで優勝し、再び世界一に輝いた。
 そんな中、1970年にアメリカ議会で大気汚染を防止するための法案である『マスキー法』が可決された。この法案では1975年までにCO(一酸化炭素)とHC(炭化水素)を、そして1976年までにNOx(窒素酸化物)を、1970年時点の10分の1にしなければ販売を許可しないとされていた。この法案の厳しい基準に対しては、世界中の技術者から達成は不可能であるともいわれていた。また、当時の日本にはこれら排ガス量を測定する機械がなく、高回転・高出力を追究していた技術者にとってはゼロからの研究・開発となった。

 こうして排気ガスの排出量を削減するための研究を行っていたホンダは、ある日、研究の中で偶然にも薄い混合気を燃やすと排ガスの発生が少ないという事実を発見する。一般的なエンジンでは、ガソリンを空気と混ぜ合わせて混合気を作り、それを燃焼させることによって動力へと変換する。その際、空気の量が増加すれば排ガスは減少するが、相対的にガソリンの量が少なくなるために発生する動力も低下するという問題を抱えていた。よって、点火をどう容易にするかが最大の課題であった。そこで燃焼室の隣に小型の副燃焼室を設け、その中で燃えやすい混合気作って点火し、その火炎を二段目の主燃焼室に噴出して希薄混合を燃やすという副燃焼室付きエンジンを考案した。これは他社が試みていない独自の方式であり世界で初めての試みであった。そうして完成したのがCVCCエンジン(複合渦流調整燃焼方式の低公害エンジン)である。ホンダはこのエンジンを1972年に正式に発表し、1975年に、アメリカのゼネラルモーターズ、フォード、クライスラーに先んじて、マスキー法合格第一号に指定された。
 こうして自動車の開発・製造で最後発だったホンダは、F1の分野だけでなく環境の分野でも世界一に輝いた。

 ホンダはその後も自動車メーカーとして発展を遂げ、1980年には戦後に誕生した国内企業として初めて売上が一兆円を超えた。1986年にはF1の分野で年間チャンピオンになり、1988年には年間16戦中15勝を挙げた。そして1989年、ホンダの終身最高顧問であった本田宗一郎は、東洋人として初めてアメリカの『自動車の殿堂』に選出されることになった。

 これまでの通産省による“自由”と“統制”を振り返ると、自動車を海外から輸入するという運輸省の方針に反対し、自国で製造するとの方針を採った通産省の選択は、国内の自動車産業の発展という点においては正しい選択であったといえる。通産省が運輸省との対立の果てに自動車産業の発展を推進したからこそ、今の日本の自動車産業の基礎が築かれた。もっとも、その後に通産省が掲げた特定産業振興臨時措置法案は、その後のホンダの発展を見れば正しい選択であったとはいえない。ホンダが通産省と対立して自由に自動車産業参入したからこそ、アメリカのゼネラスモーターズやフォード、クライスラーを超える自動車が生み出されたといえる。通産省がホンダに自動車の開発・生産を“統制”していれば、ホンダのこれまでの功績はなかったといえる。
(関連書籍:『本田宗一郎 やってみもせんで、何がわかる』

通産省と超LSI技術研究組合

 日本の経済・産業の発展を振り返る上で、通産省の存在は欠かせない。上述のように、日本の自動車産業の発展は、通産省の在り方が大きく作用したといえる。なお、自動車産業全体、およびホンダの事例では“統制”しなかったことによって発展を実現したが、“統制”によって発展を実現した事例もある。それは、半導体産業である。

 1976年当時、日本の半導体製造装置は国内産が全体の20%程度であり、残りの80%程度をアメリカから輸入していた。そこで通産省は次世代の半導体の研究・開発を行うため、汎用コンピューターを生産している富士通、日立製作所、三菱電機、日本電気(現:NEC)、東芝を通産省電子技術総合研究所に集め、『超LSI技術研究組合』を設立した。
 超LSI技術研究組合での開発においては、装置メーカーや化学・機械・光学メーカーにいたる多様な分野から技術者が集められた。超LSI技術研究組合・共同研究所を率いた東京農工大学名誉教授の垂井康夫は後に、同一建物の中で議論しながら複数の装置を開発することで『それぞれの長所を互いに利用し、競争原理が働き、無駄がなかった』としている。ここでも、技術の進歩に必要となる“効率的な競争と協調”が作用した。こうした共同研究により、半導体回路の製造に用いるリソグラフィ装置の主力となった光学ステッパやそのマスクの描画および直接描画に用いる電子ビーム描画装置など技術が生み出された。これを期に日本の半導体産業は発展し、80年代後半には世界の半導体生産ランキングでNEC、東芝、日立の3社が1~3位を占め、アメリカを抜いて世界一のシェアとなった。これら通産省主導の超LSI技術研究組合による日本の半導体産業の発展の事例は、政府による統制が発展をもたらしたことを示している。

“自由”と“統制”の理想と現実

 ソ連とアメリカの経済市場の事例では、“自由”が認められたアメリカ社会が発展を遂げた一方で、日本とアメリカの公的保険制度の事例では、“統制”がなされた日本の社会が健全な発展を遂げた。また、日本の自動車産業における政府の在り方をみると、運輸省による開発・生産に対する“統制”が行われることなく各自動車メーカーに自由な経済活動を認めたことが、結果的に日本の自動車産業の効率的な発展へとつながった。同時に、通産省がホンダの自動車開発を“統制”しなかったことが、ホンダの発展を可能にしたといえる。
 これに対して通産省主導の超LSI技術研究組合では、通産省の働きによって世界最高峰の半導体技術が生み出されることとなった。

 これらの事例から、政府が社会に対して“自由”と“統制”をどの程度設定するかによって、社会の発展の度合いが大きく異なることがわかる。これは言い換えれば、効率的な社会の発展のためには、政府による“自由”と“統制”のバランスが最適なものとなる必要があることを意味している。

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